その9  平成17年5月1日

71  弥谷寺 

パ−クホテル観音寺をでて左折し0.6kmで右折して(信号機)、県道6号線にでて1.6kmで国道11号線に
でる。左折して松山道の下を約13kmで信号機より県道を左折して1.2kmで右折、取り付け道路に入り
1.8kmで右手に弥谷寺がある。参道が長い0.5kmくらい。
 霊気漂う弥谷山中腹の険しい山肌に, 多くの道宇が立ち並ぶ弥谷寺。およそ1、300年前に聖武天皇の
勅願により行基が東の峰に阿弥陀如来,西の峰に釈迦如来を祀って開創。ここは弘法大師が8歳から13 
歳まで勉強に励んだ場所で、境内には大師がこもった岩窟がある。唐から帰国した大師が再びこの寺を
訪れ求聞持法の修行をしていたちき、五柄の宝剣が降ってきて金剛蔵王権現のお告げを聞き、千手観音
を刻んで安置したという。

  

 

 



72  曼荼羅寺 

 弥谷寺をでて0.5kmで広い道にでて左折し、約0.5kmで県道48号線にでて左折、1.2kmで国道11号線に
でて左折、約1.0kmで信号機を右折して大池の脇の信号を右折して0.3km行き右折し、池の縁を通り0.6km
で曼荼羅寺である。
 奥の院が73番出釈迦寺と同じ我拝師山、元は一つの寺だったとされる。6世紀末の推古期、佐伯一族の
氏寺として建立された。その後、弘法大師が亡き母玉依(たまより)御前の冥福を祈って、唐から持ち帰っ
た金剛界と胎蔵界の曼荼羅を安置。

  

73  出釈迦寺 

 曼荼羅寺をでて南進し0.5kmで右側に出釈迦寺がある。
 お釈迦様が山にこもって苦行した後、山から出て痩せ衰えた姿を「出山の釈迦」といい、寺名はそこから
来たと伝わる。縁起には、弘法大師7歳のとき、仏道に入って多くの人々を救いたいと発心、我拝師山に
登り「わが願いが叶うなら釈迦如来来よ姿を現したまえ、もし叶わぬのならこの身を諸仏に捧げる」と祈っ
て断崖から身を投げた。すると釈迦如来と天女が現れて大師は天女に抱きとめられた。のちに大師が
この山を再訪したとき、釈迦如来を刻んで本尊とし堂宇を建てた伝える。

  

  

74  甲山寺 

 出釈迦寺より0.6km北進し右折して曼荼羅寺の西側を北上し、0.4kmで県道48号線を右折して
約1.5kmで川を渡り、0.3km行き左折0.3km左折、橋を渡り右折して直ぐ甲山寺である。
 善通寺と曼茶羅寺の間に伽藍を建立する霊地を探していた弘法大師は、甲山の麓で翁に出会う。「私は
昔からこの地で人々に福徳をを与えてきた聖者である。ここに寺を建立すれば、私がずっと守護しよう」と
言われた大師が翁が毘沙門天であると悟り、毘沙門天像を刻んで岩窟に安置したという。これが甲山寺  
の起源だと伝えられている。

  



75  善通寺 .

 甲山寺より川端を県道48号線に戻り、(0.6km)右折して0.2kmで直進し信号まで戻り、左折して南下
して0.6kmで直進し、さらに0.1kmで直進し0.3kmで右折0.2kmで善通寺である。
 大師誕生の地として知られる。真言宗善通寺派の総本山。高野山の金剛峯寺、京都の東寺と並ぶ弘法
大師三大霊跡の一つだ。広大な寺域は東西二院に分れる。唐から帰朝した大師は、先祖の追善供養の
ため父・佐伯善通の邸跡、つまり自分が生まれ育った地に寺を建立。唐の青龍寺を模し、6年の年月をかけ
て弘仁4年(813)に七堂伽藍を完成させた。また、数々の寺宝を納めた宝物館も設けられている。
 さすが大きい寺である。雨が降っていたがお参りする人が大勢いて花の売店もあった。

  

  

  



76  金倉寺 

 善通寺より境内を出て左折して0.3kmで信号を右折して、約1.5kmで土讃線の踏切を越え、直ぐ
国道319号線に出る。左折して1.8kmで信号機で右折(国道319号線のまま)、0.4kmで右側に金倉寺が
ある。
 弘法大師の甥で天台宗寺門派の開祖、智証大師円珍が生まれた寺として知られる。円珍の祖父・和気
道善が奈良時代初めに自分の名をとった道善寺を建立。その後、唐から帰朝した円珍が唐の青龍寺を
まねて伽藍を整備し、寺名を金倉寺に改めたという。

  

77 道隆寺 

 金倉寺を出て左折し0.4kmで信号に出る県道  号線にでて右折し、県道25号線で約3kmで土讃線の
踏切をこえ、(多度津の南がわ)約1km直進して信号機で右折して、約0.6kmで土讃線を越して右折して
取付道路に入り0.2kmで道隆寺で゙ある。
 寺の起源は奈良時代と古く、鎌倉時代に山伏によって再興されたという。縁起では、この地の長者・和気
道隆が桑畑で光る桑の木を見つけ、魔物かと思い矢を放つと、乳母が倒れていた。嘆き悲しんだ道隆は、
桑の木で薬師如来の小像を刻み、御堂を建てて乳母の供養した。その後、弘法大師が薬師如来像を刻み
胎内に道隆の小像を納め本尊とした。

  

 

78 郷照寺 

 道隆寺をでて県道21号線にでて右折し、道なりに東進し信号で右折(町道)して0.5kmで左側に郷照寺
がある。
奈良時代、行基によって開創された古刹で、後に弘法大師が78番札所と定めたその後42歳となった
大師が自ら尊像を刻み、厄除けを祈願したことから「厄除けうだつ大師」として親しまれている。
88ヶ所中で唯一の宗派を超えた寺として、弘法の法灯を絶やすことなく人々の信仰を集めている。
高台にあるため、境内からは瀬戸大橋を遠望できる。

 

  



79 天皇寺高照院 

 郷照寺から町道を戻り(この間約0.5km)県道の信号にでて右折(東進)し、約6..5km行きJR高徳線
を通り右折して(駅前から0.5km)0.6kmで右側に天皇寺がある。
 弘法大師が日本武尊ゆかりの八十場の泉の近くで霊感を得て、泉のほとりにあった木で十一面観世音
菩薩を刻み、堂宇を建立。阿弥陀如来、愛染明王とともに祭り、妙成就寺と名付けたと伝える。天皇という
恐れ多い寺号が付いているのは、保元の乱(1168)で敗れた崇徳上皇が配流先のこの地崩御し、境内に湧
く冷たい霊水に御遺骸を浸したという言い伝えがあり、二条天皇が上皇の冥福を祈って崇徳上皇社を建立
し天皇寺と改名した.。  

  

 

80  国分寺

天皇寺よりでて取り付け道路を県道33号線にでて右折し、約5kmで、JR高徳線の国分(こくぶ)駅前を
0.6km左折して取り付け道路に入り0.2kmで左折し0.2kmで左側に国分寺がある。
 讃岐の国分寺として有名な寺。聖武天皇の勅願より行基が創建したと伝わる。その後弘仁年間(610〜
823)に弘法大師が堂宇や本尊を修復し、霊場に定めた。