その5     平成16年9月20日


39 延光寺 

 始めは足摺半島をぐるりと回るつもりだったが、カ−ナビに頼ったため再びスカイラインを通り
四万十川のほとりにでて右岸をさかのぼり、56号線に出るまで約22km。左折して取り付け道路まで
約15kmで、取りつけ道路約1km程で延光寺である。
 聖武天皇の勅願により神亀元年(724)に薬師如来を刻んで本尊とし開基した.。後に巡錫中の
弘法大師が、日光・月光の両菩薩を刻んで脇侍として安置し、39番札所と定めた。そこで住民が水不足
に苦しんでいるのを知り、錫杖で地面を突くと清水が湧き出し、里人の苦境を救ったといわてれる。
この水は「眼洗いの井戸」と呼ばれ眼の病気にご利益があるとされる。この水で目を洗う人が絶えない。

  

右の写真は梵鐘を背負った亀。
延喜11 年(911)大きな赤海亀が竜宮から の奉納といわれる梵鐘を背負って 寺の近くヘ泳ぎついたので
山号を 赤亀山に改めました。」とのこと。


40  観自在寺 

 延光寺を出て取り付け道路国道56号線に出て右折して約7kmで県道371号線と合流して、約17kmで
県道297号線と合流、約1kmで右折し約0.5kmで左側に観自在寺がある。
 平城天皇の勅願を奉じて一本の霊木から本尊の薬師如来と脇立ての阿弥陀如来、十一面観音の3体を
刻んで開基したのが縁起。山号は「平城山」の勅願を賜ったことから。退位した平城上皇は寵愛した
藤原薬子の乱のために剃髪出家したと伝えられ、地元出身の女官が遺髪を納めたという五輪塔が
本堂手前右奥にある。

  

  

右は十二支を刻んだ石仏。

41 龍光寺 

 観自在寺を出て取りつけ道路を右折して県道  号線にでて約40km走り、宇和島市の伊吹町の
信号機で右折、県道57号線約6kmでJR務田(むでん)駅の手前180mで左折、350mで三間川を渡り、
520mで右折、利近に出て直ぐ(この間約100m)左折200mで左折して150mで龍光寺である。
 三間盆地を見下ろす山の中腹にある。縁起によれば弘法大師がこの地で、稲を背負った白髪の老人に
出会った。大師は、老人が五穀大明神の化身であるとと悟り、ここに寺を造って老人の尊像を刻み、
稲荷大明神として安置し、四国霊場の総鎮守とした。その後、明治初期の神仏分離令で旧本堂は
稲荷神社の社殿となり新たに本堂が建てられ、本地仏の十一面観世音菩薩が本尊となった。

  



42 仏木寺 

 龍光寺を出て、来た道をもどり、県道31号線に出る(約1.0km)。県道31号線を北上約2.0kmで右側に
仏木寺がある。
 弘法大師がこの地を巡錫中、牛を引く老人に出会い、誘いのまま牛の背に乗せてもらった。しばらく行くと
大きな楠の木があり、大師が唐から東方に投げた宝珠が引っ掛かって光を放っていた。そこで大師はここを
霊地とし、楠で大日如来を刻み宝珠を眉間に納めて堂宇を建てたというのが縁起。牛にちなんで家畜の
守り仏として信仰を集め、疱瘡除けのご利益もあるとされた。

  

43 明石寺
 
 仏木寺を出て右折、県道21号線を約5.5km走り県道29号線に出る。左折して約5.5km行き右折
(信号機の手前約100m)約1.2km(松山道を超え)で左折取り付け道路に入る。約500mで明石寺がある。
欽明天皇(539〜571)の勅願により、円手院正澄上人が開基したと伝えられる古刹。その後弘法大師が
紺紙金泥の法華経を納め堂宇を建立、再建した。

  

  

 明石寺から取りつけ道路を戻り(約1km)国道56号線に出る。右折して北上して50kmで肱川橋を渡る50m
手前で左折、150mで右川に研屋がある。ホテル研屋に到着したのが2時半頃だったので、フロントもあいて
おらず、女性の方が鵜飼を見に行かないかと言うので、岐阜で見たと行ったら、ここの鵜飼は違うと言われ
たので見ることにする。5時頃出かけるから船に乗ってくださいという。時間があるので大州城をみに行く。
この城は昨年復元されたもので木の香も新しく、建設当時の枠組みの展示から当時の遺品やら展示物が
多かった。5時頃までに宿へ帰り、鵜飼舟に乗り肱川橋の下流まで行く。大阪から2人が来るというので、
その人達を待っていたが、ついに来なかった。聞いてみると泊りにも来なかったようだ、宿としても困ると
思う。