遠江三十三観音巡拝     2007.11.25

駿河一国三十三観音巡拝が満願したので、次は遠江を計画しました。
ところで遠江を「とおとうみ」と読めましたでしょうか?静岡県は駿河・遠江・伊豆の三つの藩から
なっていました。遠江に対する言葉は近江、近江の語源は淡海(あはうみ→あふみ→おうみ)で
近い淡海は琵琶湖、遠い淡海は浜名湖だそうです。
近つ淡海が近江となり、遠つ淡海が遠江となったとのこと、遠江は読めなくても「遠州」という言葉は
ご存じでしょう。

・参加者の希望で日帰りコースであること。

・県内には遠江三十三観音、伊豆横道三十三観音、遠州三十三観音などがある。

さてどうしようかと考えていた時に、檀家であり、住職の友人でもある竹腰幸夫氏が、遠江三十三観音
霊場ガイド「光と風と観音様と」をお書きになったそうで、私に一冊下さいました。
それで遠江をお参りしようと決めたわけです。
それだけでなく、伊豆は道路事情が悪く、日曜には混むだろう、また遠州三十三観音は歴史が浅いことなど
もあって遠江を選びました。

ガイドブックによれば、無住の寺も多く、山の中のお寺も多いようです。
そこで、バスは中型、御朱印帳を作るのはやめることにしました。

そして27名(実際には住職と私を除くと25名)募集したところ、ちょうどぴったりの申し込みがありました。

第1回は8時半出発のゆっくりコースです。

(掛川)結縁寺→常楽寺→長谷寺→新福寺→(袋井)北谷寺→岩松寺→慈眼寺→観正寺→観音寺

@ 一番札所 一澤山結縁寺(いったくさんけちえんじ) (曹洞宗)

 

お堂と言った感じの小さい建物ですが、右の写真のように軒の下には美しい木組みが
見られる本格的な、方形造りのお寺です。敷地内に住居(檀信徒会館?)がありましたが、
無住で留守番の方も住んでおられないようでした。

 

扉のすき間からお賽銭を入れたのですが、よくよく見たら扉には鍵がかかっていません。
中に入ってお参りしました。

 

上右の井戸は、御詠歌「父母の恵も深き結縁寺 閼伽井(あかい)の水に浮かぶ月影」
の中にある閼伽井。

この観音堂は元禄初年(1688)の焼失後、宝暦9年(1759)近隣の寄付により再建されたものだ
そうです。250年前の信者さんの気持ちを想像すると、感慨深いものがありました。
こうしてみんなでお参りして、御詠歌をお唱えして、喜んで貰えたかな?

A 二番札所 保福山常楽寺(曹洞宗)

 

↑ 二番札所の文字が見えます。文化3年(1806)建立だそうで、古いものです。
無住で、鍵がかかっておらず(あらかじめお参りすることを知らせてあったので
開けておいて下さったのでしょう)、どなたもおられません。

 

中に入り、早速、お経と御詠歌をあげました。

  

安政の大地震で堂宇が倒壊、明治初めに再建、昭和46年の台風で倒壊、さらに火災で焼失後
再建されたという荒波をくぐって生き延びてきたお寺です。お祀りしてある仏像を見ると、
もともと大きなお寺であったのではないかと思われます。

B 三番札所 東陽山長谷寺(とうようざんちょうこくじ)  曹洞宗

  

法事があったようですが、少しの合間に和尚様がお茶を入れて下さいました。
 

樹齢推定300年と言われるスイリュウヒバ(掛川市指定保存木)

http://www2.tokai.or.jp/fukuda.katsumi/newpage33.htm  によると、
お参りなさったときにご住職がていねいに説明してくださったとのこと。
私たちの時は、法事の終わった直後で、皆さんがお墓参りにいらしていた間にお茶のお接待を
してくださいました。時間があったらきっと私たちもお話をうかがえたと思います。

C 4番札所 鶏足山(曽我山)正法寺内新福寺    曹洞宗

今回は事前に各お寺に「25日にお参りに行きます」と葉書を出しておきましたが
ここだけは戻ってきてしまいました。
新福寺観音堂は、元は高御所区北端の曽我山上にあったが、明治23年廃寺となり、正法寺
境内に移転したそうです。観音堂の中に貼ってあった御詠歌も
「参るより罪はあらじの新福寺 おんての花を見るにつけても」の新福寺の部分が
正法寺になっていました。現在では「新福寺」という名は知られていないのでしょう。

  

右写真が観音堂です。第4番札所という木の看板が左側に掛けてあります。

  

大きな木の切り株です。

D 5番札所 法多山尊永寺内北谷寺  真言宗

さて次は厄除けで有名な法多山です。お参りしてからお弁当の予定でしたが、時刻は11時半。
すぐそばのエコパで午後1時から、サッカーの試合があります。藤枝の高校同士の対決で
駐車場に向かう車の列に巻き込まれてしまいました。
予定変更、まずは法多山の駐車場でお弁当です。今日は、雲一つない晴天で風もなく
バスの中は暑いくらいでした。

 

法多山は参道が長いです。歩き始めは土産物屋が軒を連ねていて、いかにも参道らしい
風景です。まずは仁王門の前で一枚。

   

みんなが「阿形」の仁王さんを見て「笑ってるよ」と言いました。
なんか、秩父の童子堂の仁王像を思い出しました。

  

途中、つわぶきがたくさん咲いていて、とてもきれいでした。

 

紅葉はさほどではなかったのですが、この1本はきれいでした。
階段、または緩やかな坂道をかなり上ります。けっこうきつい(^_^;)。

  

上の写真は本堂で、その右側に北谷寺があります。
明治5年の廃仏毀釈で無住となった北谷寺を法多山尊永寺の石段横に移して
北谷観音として祀っていましたが、平成10年の集中豪雨で尊永寺本堂の石段が崩落、
お堂も土砂に流されてしまったそうです。ご本尊は無事で、現在は本堂横の東堂に
祀られているそうなので、北谷寺の看板の掛かっているこのお堂は元々の北谷寺では
なくて「東堂」なのでしょう。

  

天井も格天井で、きれいな絵が描いてあります。
歩兵第18連隊出軍の図 明治24年9月 と描いてある絵馬もありました。
 
 せっかくなので、店に入って名物の厄除け団子を食べました。


E 6番札所 篠ケ谷山岩松寺(しのがやざんがんしょうじ) 真言宗

  

 自然石を積み上げた階段

  

岩松寺は高野山理性院の末寺で、神亀年間の創立と伝えられ、山岳仏教の流れを汲んで
最盛期には30の僧坊があったと言われます。慶安元年(1648)には24石の御朱印を受けていた
そうです。この観音堂は正徳3年(1713)の再建であり、元々は茅葺きであったものを明治になり
現在の瓦に葺き替えたそうです。
今回のお参りでは、寺の栄枯盛衰を実感しましたが、特に、このお堂にお参りして
なんとも言えない淋しさを感じました。

  

この季節に咲く桜なのか、それとも季節を間違えたのかわかりませんが、桜が咲いていました。

F 7番札所 福聚山慈眼寺(ふくじゅざんじげんじ) 曹洞宗

  

鐘楼門

G 8番札所 月見山観正寺(つきみさんかんしょうじ)  曹洞宗



この頃には疲れもピークに達しました。11月末なのにバスの中では「冷房入れて下さい」の声が出たほど
暑かったのです。お参りが済んで、バスに乗ったと思ったら、次の札所の御詠歌の練習、そして
降りてはお経と御詠歌、お参りの旅は修行だなあと実感します。

さてこの観正寺、ご覧のように普通の住宅の間にはさまれてたっている、小さいお堂です。。
岩松寺はほんとうに忘れられた寺という感じでしたが、この観正寺は扉こそ閉まっていましたけれど
中を覗くとお花も飾られていて、お寺を守っていてくださる方の存在が感じられました。

  

「幾度も参る功徳のたまりみず 浮かぶ救世の舟寄せの松」
「救世」を何と読むのか、頭をひねりましたが、「ぐぜ観音」があるのだから「ぐぜい」では
と推測、結果は当たりでした\(^o^)/。

H 11番札所 高平山 遍照寺内観音寺   真言宗

観音寺を過ぎたところで、バスの中で居眠りしてしまいました。
「次は目が覚めるよ、山登りだから」(-_-)
バスは袋井から森の石松で知られた森町へ向かいます。
「無住の寺だそうだし、その前に歩くのでは今のうちにトイレにいっておきたい」という
声があがりましたが、さて・・・。
今回はトイレを借りられるようなお寺がほとんどありませんでした。
これが西国や秩父など、有名な巡礼コースならどのお寺もきちんと整備されていますが。

うーん??、戻ってどこか探そうかと話していると、なんと道ばたに公衆便所がありました。
そばにグランドやら大きな施設があるわけでもないのに・・・。
ちゃんと車いす用のトイレも付いた本格的なトイレです。よかった、よかった。

  

山頂までは500m、15分の道のりです。
 

のぼってみると、境内はなかなか広いです。山頂にこんなに平らな場所があるとはちょっと想像でき
ません。大仏様は1718年の建立だそうですから300年近く経っていますが、もっと新しい感じでした。
方形造りの本堂は遍照寺です。観音堂は明治5年に森町鴨谷の観音寺から移築されましたが
平成14年4月、老朽化のため屋根が落ち、解体されたそうです。


    

右は作家村松梢風の墓。「残菊物語」で知られ、「実証的な手法に裏付けられに、卓越した腕をふるった
作家として知られる」とウィキペディアに書いてあります。村松友視は孫に当たるそうです。
私はこの人の著作は読んだことがありませんが、名前は知っていました。確か・・・と調べてみると
「春の海 宮城道雄の芸術とその生涯」という本を書いています。それで私は村松梢風の名を知ったの
でした。

ここの墓地には、神道のお墓もありました。普通のお墓とちょっと違うなあ・・と思ってみていると
(墓碑銘も**姫とか**命となっています)「榊が飾ってあるし、これは神道のお墓だよ」という声。

  

帰り道、よく手入れされた畑にきれいに菊が咲いていました。
時刻は4時、暗くなる前にお参りを済ませることができて良かったです。

買い物の楽しみがあった方がいいかなと、東名ではなくバイパスを通って
道の駅掛川によりました。この時はもう真っ暗で、寒くなりました。
バイパスが混んでいたので帰着が7時。予定よりだいぶ遅くなりました。

私が寺庭として、まず同じ宗派内の寺庭婦人会活動に参加すると、同じ宗派の寺の様子が
わかってきます。仏教婦人会の仕事をすると他宗派の様子も少しずつわかってきます。
これは同時代の横の広がりですが、お参りをして歩くと、今度は過去から現代への
流れが少しずつつかめてくるような気がします。

山岳仏教の流れを汲む宗派のお寺は、高い山の上などにあって、正直なところ
現代の家庭を持った僧侶が生活するのには不自由だろうと思います。また、大型重機のない時代に
よくこんな所にこんなお寺を建てたものだと思いもします。
今と違い、電気のない時代は日が落ちれば月夜でない限り山の中は真っ暗です。
修行僧はどんな生活をしていたのだろうか・・・・。

山岳密教、禅宗の広まり、江戸時代の朱印地、廃仏毀釈、檀家制度など歴史の時間に
学んだことが、目の前の古いお寺を見ているうちに、有機的につながってきます。
幕府から石をもらうということは、こういうことだったのだ、なるほど・・・などです。
人によってお参りする目的はさまざまでしょうが、私は歴史の中から、現代の寺に生きる
寺庭の生き方の指針らしきものを得られたらと思います。これは巡拝をしていてだんだんに
感じてきたことです。
もちろん、檀家の皆さんと一日一緒に過ごすのはとても楽しいことです。共通の思い出も
得られますしね。
物見遊山と違って修行に近いようなこのお参りの旅に、喜んで参加して下さる檀家さんには
心から感謝しています。