2008.1.27
今回は5ケ寺をまわりますが、難所があります。
7:15出発でしたが、天気はどうやら晴れ、身が引き締まるような冷気の中、いざ!!
東名牧ノ原あたりでは黒い雲がどよ〜〜ん、これは困ったと思っていましたが
最初の清瀧寺ではまずまずの空でした。
(磐田)清瀧寺→(森町)蓮華寺→(掛川)長源庵→顕光寺→知蓮寺
@ 九番札所 岩室山清瀧寺(いわむろさんせいりゅうじ) (真言宗)
この一帯は「獅子ヶ鼻公園」だそうで、バスを降りると眼下に広がる景色、「こんなに上って
きたんだねえ」
ここ岩室は平安時代には天竜川を渡るのに重要な地点で あったらしいとのこと。下に載せた額にはこんなことが 書いてあります。 弘法大師開山の岩室寺は、当時は七堂伽藍を始め 数多の坊舎を設け、あたかも高野山のようであった。 「岩室遺跡」という額には 織田信長に攻められ、堂宇伽藍ことごとく兵火にあい 延焼数日、村は焼き尽くされ、旧記は灰燼に帰した。 |
「岩室遺跡に関する年表」には
天文15年(1546)比叡山と岩室山が本末の論議で争い、岩室山に比叡山から来襲した多数の僧徒により
焼き討ちされ、岩室山に属していた正福寺も類焼の難を受ける。
その後難を逃れて仏像を土中に埋める(記帳無し)
織田信長になぜ攻撃されたのか、比叡山との宗教争いではなかったのか?これらを読んだだけでは
よくわかりません。
いずれにしても今は集落から離れたところにお堂だけがひっそりと建っていますが、昔は七堂伽藍を
備えた大きな大きなお寺だったのです。天竜川の流れも今とは違っていたのでしょう。
年表の中に
弘安元年(1278)岩室西谷の寂仙坊にて大般若経六巻書写す。執筆千代若丸 清水市久能寺
とあります。
弘安と言えば蒙古襲来弘安の役の時代、久能寺は現在の静岡市久能山にあった大きなお寺。
ふんふん、あの時代にここの寂仙坊の千代若丸さんが大般若経をせっせと書き写していたのだ。
そんなことを考えると、タイムスリップしたみたいで楽しい。
その埋められた仏像は200年後の明和2年(1765)に掘り起こされ、安置されたそうです。
このお堂の中に祀られているそうですが・・・。
それからは遠江三十三観音霊場の札所として、あるいは初午などが盛大に行われ
信仰の的としてあがめられるようになりました。
この御仏様は霊験あらたかで第二次世界大戦中には大勢の出征兵士を送り出しましたが
一人の犠牲者もなく全員帰還できたなど、延命観音としてもすばらしい御仏であります。
と書いてあります。
A 十番札所 八形山 安住院 蓮華寺 (やがたさんあんじゅういんれんげじ) (天台宗)
萩の寺として有名だそうですが、???見あたりません。冬は切ってしまうそうです。
そして先週20日(一月第三日曜)に星まつりをなさったそうで、お参りの人がつまずかないように
切り株に土を被せてありました。それで「萩の寺?」の理由がわかりました。
ですから萩の時期には今と雰囲気が全く違うでしょう。
萩と言えば秋と思うのですが、一番早いものは4月中旬から咲くそう。珍しい青い萩もあるそうなので
見てみたいです。
蓮華寺は文武天皇の勅願によって創建され、開基は行基。
法相宗の東海の本山として周囲4Kmに及ぶ寺領を有し1300年の歴史をもつお寺だそうです。
詳しくはこちらをどうぞ↓
http://www.rengeji.com/rengeji.html
木喰上人作の子安地蔵尊像 天井には駕篭が・・・
仏像もたくさんあったのでじっくり見せていただきました。
奥様が「現住職は140代(正確な数字は忘れました、ごめんなさい)。息子は別の寺で住職
孫が比叡山で修行中」とおっしゃいました。私は心の中で思わず「お見事!!」と叫びました。
観音巡拝をしていると、寺の存続についていろいろ考えさせられます。江戸時代の檀家制度に
組み入れられたお寺はそれなりに続いてきていますが、檀家が無く、幕府から禄を貰っていた寺
学問寺などは、危機を乗り越えられなかったこともあったでしょう。
建穂寺のように廃寺になったり、この遠江三十三観音の中の幾つかのお寺や、藤枝の万願寺など
のように、お堂が残っているだけの状態を見てきただけに、この蓮華寺には感動を覚えました。
すぐそばに森町歴史民俗資料館があるので覗いてみました。元の周智郡役所の建物だそうです。
中には所狭しといろいろな道具が並んでいます。古いものから私たちでも使った経験のある
謄写版まで多種多様でした。
蓮華寺でゆっくり見学し、またここでゆっくりしていたら、バスの方から「和尚さ〜〜ん」と
呼ぶ声が・・・。みんな待ちきれなかったようです。
というか、次の次はいよいよ山登りなのでタクシーの予約時間が迫っていたのでした。
B 十二番札所 神宮山 長源庵 山崎 (じんぐうざんちょうげんあんやまざき) (曹洞宗)
遠江の札所は現在の寺の名前とちょっと違うところがいくつかあります。ここもそう、
お経のあと御詠歌を。後ろは第二東名。
元禄時代のものとされる極楽と地獄の絵図。お堂の扉は開かないので
格子からカメラを入れて撮影しました。元禄時代のものだそうです。
西国三十三観音巡礼記念の供養塔 文政5(1822)年6月
C 十三番札所 大尾山 顕光寺 (おびさんけんこうじ) 真言宗
乗用車は近くまで上れるが、バスはダメということで、麓の「ならここの里」からタクシーで
上ることにしました。お参りにタクシーは全く似合いませんが、片道1時間以上かかる山道では
仕方ありません。タクシー7台を連ねて上っていきました。道は狭く、待機場所もそんなにないので
すれ違ったらどうしよう?状態でした。林の中を上っていくと、最後近くにぱっと視界の開ける所が
あり、思わず「わっ、きれい」。
駐車場は広く、この通り。さて歩き始めます。道は落ち葉が掃き寄せられていて柔らかな感じで
歩きやすいです。
まっすぐに伸びた木々が凛々しくて、神々しい感じです。
右の写真の石灯籠は仁王門代わりでしょう。こんな高いところでは重い物は
とても運べません。よく見えないでしょうが、左端の木に「大尾山顕光寺」と
書かれた木札が下がっています。左端に建物が少し見えますが
庫裏で、ご住職が住んでおられるそうです。奥様とお話ししました。
大尾山は海抜661mだそうで、本堂は山頂近くにあります。
庫裏の庭には雪が残っていました。上ってくるときも山肌に雪が残っていました。
さて、本堂目指してさらに上ります。
見晴台と書いてありましたが、いやぁ高くまで上ってきたものだ\(^o^)/
階段を上ると鳥居杉が出迎えてくれて、やっと本堂に着きました。
周りが木だけなので、赤がとても映えます。
掛川市本郷長福寺の第二代智顕上人が、大同2年(807)この地に観音堂を建て、
千手観音を祀ったのが始まりとされるそうなので、ずいぶん歴史のあるお寺です。
海上安全、子授け、子育て、厄除けなどのご利益が知られ、また江戸時代には掛川藩の
祈祷所として手厚く保護され、信仰を集めてきたそうですが、お参りに来るには
大変だったことでしょう。厳寒期は雪も積もったでしょうし。
鐘をつかせて貰いました。周りに人家は全くないので、気兼ねなく(^_^;)。
しかし大きな杉の木だこと。 一本は雷に打たれたそうで、中がうろになっています。
またタクシーで下り、バスの中でお弁当。
それにしても、あの山の中に住んでおられるとのこと、蓮華寺に続いてまたまた感動しました。
タクシーを使ったとは言え、最後は15分ほど歩いて上りました。冷たい空気の中、
身が引き締まる思いで、本当に来て良かったと思いました。
D 十四番札所 瑞霧山大雲院内知蓮寺 曹洞宗
だんだん雲行きが怪しくなってきました。
↑ これが知蓮寺です。
大雲院本堂、ちなみに大雲院の本寺は静岡の増善寺だそうです。増善寺は
駿河三十三観音の札所なので最初の頃お参りしました。
右は母恋地蔵尊地蔵尊
周りのお地蔵様がまたまたかわいい (^。^)v。
梅やロウバイが咲いていました。みんなの笑顔が印象的。右は穴観世音菩薩。
今回は5つのお寺にお参りしました。強烈な印象を残した蓮華寺や顕光寺、
有意義な一日でした。
帰りに掛川城によってお土産を買い、東名を通って家路につきました。
帰り道、小雨がぱらぱらしてきました。お参り中に降られず良かったです。